Last Updated on March 24, 2021 by shibatau
全般的に修正して加筆しました。誤字、脱字、わかりにくいところがあると思いますが、適宜修正します。
I.何をする?
Mediumの哲学関連の記事については、ほとんどコメントはしませんでしたが、昔読んだ哲学者が並んだ記事がありましたのでコメントします。わかる範囲での感想です。
II.哲学を嫌いな人にお勧めの哲学者はだれ?
哲学を嫌いな人はにお勧め哲学者が紹介されています。
If You Hate Philosophy There is a Good Chance You Will Be Part of Its History
取り上げられているのは次の4人です。
Ludwig Wittgenstein: 26 April 1889 – 29 April 1951 (aged 62)
Friedrich Nietzsche: 15 October 1844 – 25 August 1900 (aged 55)
René Descartes: 31 March, 1596 – 11 February, 1650 (aged 53)
Karl Marx: 5 May 1818 – 14 March 1883 (aged 64)
「哲学」を嫌うといっても、「哲学」とは何かについての共通理解がないので、「哲学」と呼ばれているものを嫌いな人という意味ですね。
それに、この4人に共通の「哲学」理解があるとも思えません。
日本で「哲学」というと、処世術とか、生き方とか、理論の背後にある考え方を意味していることが多いようですが、わたしもそういう「哲学」には関心がありません。
Rで年表を作成しました。参考に、私がいま読んでいるDostoevskyも加えました。
library(timevis) data <- data.frame( id = 1:5, content = c("René Descartes", "Karl Marx", "Fyodor Dostoevsky", "Friedrich Nietzesche", "Ledwig Wittgenstein"), start = c("1596-03-31", "1818-05-05", "1821-11-11", "1844-10-15", "1889-04-26"), end = c("1650-02-11", "1883-03-14", "1881-02-09", "1900-08-25", "1951-04-29") ) timevis(data)
III.Ludwig Wittgenstein
次のように書かれています。
Denounced that there are a lot of “fake problems” in philosophy. He emphasized “philosophy is not a natural science,” in his Tractatus (section 4.111), and was convinced that he showed “the fly the way out of the fly-bottle,” analogizing to metaphysical problems he helped rid from philosophy.
ヴィトゲンシュタインは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を愛読したことは知られていますが、哲学者の著作をほとんど読まなかった、つまり、ほとんどを自分で考えた、まれな哲学者です。
ヴィトゲンシュタインの思想は、大きく前期と後期にわけるのがふつうです。前期を代表するのが『論理哲学論考』で、後期を代表するのが『哲学的探究』です。
私が研究していた頃は、前期と後期は全く異なっていて、2人のヴィトゲンシュタインがいるという感じでしたが、今は違うかもしれません。
1.『論理哲学論考』のアイデア
『論理哲学論考』の基本的なアイデアは、言語が世界について何かを語っているとして、言語と世界がどのような関係になっているかを明らかにするというものです。
具体的には、名は対象を指している、名が集まって文になって、文が事態を表していて、事態の集まりが事実でそれが世界を形成している、、、というような説明になります。
当たり前のことと思われるかもしれませんが、つきつめて考えると意外なことがわかります。
名は対象を指していますが、論理的な言葉、「しかし」や「かつ」や「あるいは」は何を指しているでしょうか?
ヴィトゲンシュタインによれば、論理的な言葉は何も指していません。
例えば、「ボールはをはなせばボールは落ちる」という文は状況によって真でも偽でもあり得ます、、、例えば、無重力なら落ちない、、、が、「ボールをはなせばボールは落ちる、かつ、ボールをはなす、かつ、ボールは落ちる」は常に真です。
論理記号を使えば、”P->Q”は真でも偽でもあり得ますが、”(P->Q)&P&Q”は常に真です。
もっと簡単な例は、「ボールがここにあるか、ボールがここにないかどちらかだ」つまり、”P or -P”は常に真です、、、いわゆるはい排中律で議論の余地はありますが、、、。
さて、ある文が常に真であるということは、世界で何が起こっても真だということですから、世界について何も語っていないと考えるべきです。
論理的な推理は文を論理的に操作しているだけなので、世界についての経験知を増やさない。つまり、論理的な推論により出された結論は、もともと知っていたことだということになります。
これは少し不思議です。ふつう、「論理的に考えなさい」というとき、論理的に考えることで何か新しい知識が生まれると思ってますよねえ?
ヴィトゲンシュタインは、論理的推論はこの世界を表す最小単位文(要素命題)に論理規則を適応したものだと考えます。
したがって、命題は要素命題の真理関数であることになります。これを表したものが論理学や数学で習う真理表です。
2.哲学は自然科学ではない
さて、先の引用にもとにもどって、「哲学は自然科学ではない」の意味を考えます。
ここでの「哲学」は論理や世界と言語、論理の関係について述べること、つまり、『論理哲学論考』のような論述、議論のことをさしていたと思われます。
自然科学は世界についての知識ですから、論理や論理についての議論が自然科学でないのは当然ですが、この「哲学」には奇妙なところがあります。
3.メタ言語は語り得ない?
『論理哲学論考』の各文は論理や論理と世界の関係について述べていますから、今風の言い方をすると、世界について述べた文を対象言語とするメタ言語になっています。
メタ言語と対象言語をいっしょにすることはできません。いっしょにすると有名な嘘つきのパラドクスと同じパラドクスが生じます。
例えば、「この引用符の中に書かれていることは偽だ」は真としても、偽としても矛盾を生じます。矛盾を認めでしまうと、論理が成り立たなくなって、論理的に考えることも、議論もできなくなります、、、ふつうはそう考えますよね?
形式的に考えれば、メタ言語の名は対象言語の”名”を指しているとして、別の新しい言語とすれば矛盾を避けることができます。
しかし、これをわれわれの「理解」の観点から考えると、(対象言語のメタ言語)、(対象言語のメタ言語)を対象言語にするメタ言語、((対象言語のメタ言語)を対象言語にするメタ言語)を対象とするメタ言語、、、、と続き、これを「理解」するには、最後のメタ言を理解する必要がありますが、無限に続くことになります。
ヴィトゲンシュタインはそれを拒否しました。ヴィトゲンシュタインが出した結論はこうです。
『論理哲学論考』は世界の対象や事実について述べていないのだから無意味だ、「語り得ないことについては沈黙せねばならない。」と自らの記述を否定するに至ります。
これ事態非常に奇妙なことですが、それに加えて、この意味がない『論理哲学論考』を読むと、言語と世界の関係を理解することができ、哲学的な疑問が解消されるという効果はある、とヴィトゲンシュタインは考えていたようです。
しかし、無意味な言説になぜそのような効果が期待できるのか?
当時のヴィトゲンシュタインにすれば、その問いは世界について述べたものではないので無意味、したがって、その答えは存在しないということになるでしょう。
4.後期の哲学とは?
こ後期の『哲学探求』?で、引用にあるように、哲学は疑似的な問題に捕らえられている哲学者を疑似問題から解放する役割がある。それは、ハエとりボトルに捕まったハエを外に出してやるようなものだという趣旨のことを述べていたと思います。
ハエとりボトルって、こういうのでしょうか?
https://en.wikipedia.org/wiki/Fly-killing_device#/media/File:3_fly-bottles.jpg
Wittgensteinnno前期と後期は全く異なる、より正しくは、前期の『論理哲学論考』を否定するう形で後期の哲学を考えたのですが、哲学そのものについての考えは似ています。
前期は哲学的言明は意味がない。哲学者が語ろうとするとき、意味がないことを示すことが解決だ。後期は、哲学者はハエのように疑似問題にとらわれている、これに出口を示すのが哲学だ。
前期も後期も哲学的言明は意味がないということです。残された哲学の役割は、問題の真偽を述べるのではなく、また、問題が存在しないことを語るのでもなく、問題が存在しないことを「示す」、あるいは、「説得」するこことです。
後期のノートで、精神分析や裁判などを取り上げるのもこの脈絡です。
精神分析では患者の自己理解、納得が重要です。裁判では裁判官を説得することが重要です。
哲学的問題がすべて疑似問題かどうか、これは証明できないことでしょうが、かなりの問題は、言葉や論理の誤解から生じていることは確かだと思います。
しかし、それにしても、「説得」や「納得」ってどういうこと?と思いますよね。後期のヴィトゲンシュタインにとっては、「理解する」が心理的な出来事ではないことを繰り返し論じていますが、これがかかわっていますがこれ以上は読み返さないとわかりません。
で、哲学嫌いな人にとって確かにヴィトゲンシュタインはよいかもしれませんが、考え方はあまりに「哲学」的で、考えるのが嫌いな人にはお勧めできませんよね。
IV.Friedrich Nietzsche
To be continued.