Philosophy&Thoughts: 世界は存在しないと主張する実在論者Marukus Gabrielって?

Last Updated on February 27, 2021 by shibatau

インタビュー文書がなくなり、リンクが切れています。

ノートしていた点をVIに追加しました。

I.Marukus Gabriel

 

私の専門は哲学、、、分析哲学、、、でしたが、長い間哲学から離れていたので最近の話題には疎いです。

Youtubeで、「新実在論者」とMarukus Gabrielという名をよく耳にしますが、???です。

ちょっと調べたところ、氏の主著のタイトルは『なぜ世界は存在しないか』、、、実在論なのに世界が存在しないって???、、、なぞは深まるばかりでした。

インターネットでたまたま氏のインタビュー記事をみつけて読んだところ、大変わかりやすかったのでここにご紹介します。

 

WHY THE WORLD DOES NOT EXIST in conversation with Markus Gabriel

 

II.「世界は存在しない」

 

ちょっと、誇張した言い方です。より正確には、一まとまりの実体としての世界は存在しないという主張です。

古代ギリシャの哲学者は、世界は特定の元素、例えば、水や土や火からできている、あるいは、数や理念からできている、などと考えました。また、万物は流転するというのが世界の普遍的法則だと主張する者もいました。以来、哲学は、世界全体を支配する原理、法則を見つけ出そうとしてきました。

哲学だけでなく、宗教も科学も世界の普遍的な真理や法則を見つけ出そうとする点では共通しています。

このような特定の元素、原理、法則で説明できるような世界は存在しないというのが氏の主張です。

 

Markus Gabriel: The idea that there is such a thing as the world in its entirety, in particular, very early on in Greek philosophy, comes to be understood as the view that there are overall principles/laws governing everything there is. This is the birthplace of the notion that there is a universe and that the universe is governed by exactly one set of laws. Against this background, humanity has been trying to figure out what exactly those principles were, because insight into those principles promised them some kind of omniscience. Plato and Aristotle clearly tell us that we can somehow know everything by knowing the principles of the world as such.

 

ここまでのところは異論なしです。私がもっとも影響をうけたWittgensteinの基本概念「言語ゲーム」も各種ゲームに共通するルールがないことに由来しています。

 

III.ハイデッガーとヴィトゲンシュタインは世界を認めた?

 

Gabriel氏の立場からみると、ハイデガーとヴィトゲンシュタインは、統一した原理で説明される世界を解体しようとしたと言えるかもしれないが、最終的には、世界なるものを認めているとされます。

ハイデガーは、現実存在(Dasein)を世界の存在へといたる通路としたのですから、世界なるものを認めているといえるかもしれません?

ヴィトゲンシュタインは、次の引用の終わりに言及されているように、『確実性の問題』で、世界についてプリミティブな言葉を有意味に疑うことはできず、これが世界を構成しているという趣旨のことを主張しています。

 

Even though one might read Wittgenstein and Heidegger as pointing in a similar direction, there are many details in our accounts that differ. Both reject the position that philosophy is a theoretical activity and want to replace it by something else (Heidegger through thinking and Wittgenstein through therapeutic elucidation). Also, Heidegger never gives up on the existence of the world, as for him reaching out to the whole of beings is what it is to be what he calls a ‘Dasein,’ that is a free being like us. He explicitly writes that our freedom consists precisely in establishing criteria of world-entry (Welteingang) for entities out of nothing, what he therefore calls nihil originarium (original nothing). For him, the world is not itself substantial, but a set of overall assumptions we need to make at each point in the history of philosophy in order to make sense of non-human things being there. Wittgenstein certainly is not looking for a world-picture himself, but also gives a lot of credit to the view that we cannot help, but make world-picture-like overall assumptions about what there is and how we fit into it. In On Certainty he explicitly gives some kind of substance to notions like ‘world-picture’ and ‘mythology’ and seems to argue that we are never really able to operate outside of them. However, I disagree.

 

さて、どうでしょう。フッサールの場合は、世界に妥当する一般的な規則を探し求めたと言えますが、同じ現象学的手法を使うといっても、ハイデガーの場合、現存在を介して至る存在が一般的な法則に従う世界と言えるかどうかは、「世界」や「原理」の意味によると思います。

ヴィトゲンシュタインの場合、言語ゲームの考え方は、全言語に共通するゲームはないということなので、Gabriel氏のいう統一原理に従う世界と対極にあるといえます。

氏が批判する『確実性の問題』は、ヴィトゲンシュタイン最晩年に書かれたノートだったと思います。

ヴィトゲンシュタインが主張したことは、簡単にいうと、たとえば、「ここに手がある」と「火星に水がある」の「ある」は意味が違うというものです。

「ここに手がある」は疑い得ませんが、「火星に水がある」は真でも偽でもあり得ます。疑い得ないというのは、真でも偽でもありません。「ここに手があるのは真です」をまじめに主張することは不可能だというのがヴィトゲンシュタインの主張です。

もし、あるひとが手があるのに、「ここに手がない」と言ったら、病気の症状であるか、そうでなければ、その人は、「手がある」を「手がない」と表現していると考えるかもしれません。

我々はこのような疑い得ない確実性をもった表現にかこまれていると最晩年のヴィトゲンシュタインは考えました。

ちょっと神秘的な印象をうけますが、ある言語を考えた場合、言語について、他の言葉で言い換えたり、推理できる語とそうでない語や文があるという主張は、それほど奇異な考えではありません。

このような語や文について論じるからといって、Gabriel氏の主張するように統一した原理で説明できる世界があることを認めているとまでは言えないように思います。

ところで、ヴィトゲンシュタインの特徴は、世界をどう考えたかということより、言語に注目した点です。プリミティブな語や文を我々は学習によって習得するのですが、この習得の場を超えてこれらの語を適応するところに、「哲学的問題」が生じるのだと考えました。つまり、哲学的問題は、実は言語の誤用によるものであり、語を正しく用いれば哲学的問題は解かれるのではなく、なくなるのだと考えたのです。

ヴィトゲンシュタインの新しさは、哲学的問題を前期なら論理、後期なら言語の問題として解決しようとした、いわゆる「言語論的転回」です。その点、ハイデガーや他の哲学者と同列に論ずることはできないように思います。

 

IV.世界が存在しない理由

 

次のように述べてられています。”domains”を”language games”で読み替えればヴィトゲンシュタインも同様に考えます。いろいろなゲームがありますが、全てのゲームに共通のルールはありません。

 

「、、、多少が存在するのは、対象が位置するドメインに依存している、、、。それぞれのドメインには、特別の規則、あるいは法則があり、一定の仕方で対象を特徴付けている(フィールドの中の意味)」

 

MG: Roughly, the argument goes like this: what it is for an object to exist depends on the domain within which it is located (I call domains: fields of sense in order to distinguish them from sets and other kinds of collections of things). For each domain there are specific rules/laws characterizing objects in a certain way (the senses of a field). 

. . .

Usually, there is just a stubborn insistence that existence is what makes things real. But in my view the real question is always: what domain or field is relevant and only then can we ask whether in that domain or field the thing in question appears.

 

Oh, Fully, I agree with you! 異論はありません。Wittgensteinの考えてと同じです。違うのは、たぶん、Wittgensteinは言語の分析としてそれを主張したところです、、、たぶん。 

 

V.存在とは何か?

 

存在するとはどういうことかという質問に次のように答えている。

 

MG: On my account, for something to exist is for it to appear in what I call a field of sense, where these fields are objectively constituted by rules/laws that unify things into things of certain kinds. For instance, the number 3 exists – in the field of natural numbers –; protons exist – in the universe –; Angela Merkel, the chancellor, exists – in the course of European history etc. It’s just that there is no field of all these fields, which settles questions of existence, no rule/law, under which everything which exists is a subject. ‘Being’ in the tradition of philosophy means all sorts of things.

 

実は、まだ最後まで読んでいないので断定はできませんが、どうでしょうねえ?

私たちの世界は、様々なルールから構成されていて、ある場合はルールが明示されているように見えます。例えば、算術は規則がはっきりしていて、その規則の中では、3ははっきり定義されているように思えます。しかし、多くの場合、ルールはもっと曖昧です。

Wittgensteinが示したようにに、例えば、ある民族では、10より大きい数はすべて「たくさん」と表現するとします。その場合、「3」の意味は我々の意味と同じといえるでしょうか?10+3は「たくさん」なのに?

その文化では、「10より大きい数は『たくさん』と呼ぶ」というルールに支配されているさえいえるかどうか?

Wittgensteinは、この規則の曖昧な性格を「ゲーム」という言葉で表しました。チェスという「ゲーム」には示すことができる規則があり、勝者と敗者の区別がありますが、ボールを頭上に投げて遊ぶ「ゲーム」には、どんなルールがあるでしょう?勝ち負けはどう決めるのでしょう?

 

VI.新しい実在論?

 

リンクしていたインタビューの文書が消されたので、ノートしていた点だけを付け加えます。

Gabriel氏は、次のように、存在論を古い実在論、構成説、新しい実在論に分け、自らの立場を新しい実在論としています。

 

MG: I draw a distinction here between three overall stances: old realism, constructivism and new realism. Old realism claims that realism is a commitment to ‘the world without spectators’. To be real is to be mind-independent, to be out there, ready to be discovered from the standpoint of uninterested science. Constructivism overreacts to this by arguing that there really only ever is ‘the world of the spectators’. The very idea of an unobserved world is indeed a construction hinging on a number of posits, telling you which elements from your actual experience can be mapped onto any alleged world
without you. This is what constructivism gets right, but heavily overextends into a world-view. New Realism consists in the claim that there are objects and fields of sense, which have a full-blown realist shape and others, for which this does not hold without either of those enjoying any kind of metaphysical or overall explanatory primacy. Governments or mental illnesses are no less real or exist no less than bosons or the moon. Mind-independence is just not a necessary criterion for realism nor does mind-dependence undermine it. [太字は引用者]

 

存在に対する立場を実在論、構成説、新しい実在論の3つに分けるのはあまりに単純化しすぎです。

また、上の「新しい実在論」の説明は構成説と区別できません

構成説にはいろいろな立場がありますが、いずれも文化、社会、言語などの一定の範囲で実在が構成されていると主張します。それぞれの範囲で、実在は個々の構成メンバーから独立しています。

このような構成説の立場は、これまで反実在論、相対主義として批判されてきましたが、この批判はそのまま「新しい実在論」にも当てはまります。もちろん、反論できますが、その反論はGabriel氏の主張と同種のものですので、構成説と「新しい実在論」の区別はいよいよ曖昧です。。

Wittgensteinオースティンなどの日常言語学派は、実在を言語に相対的なものとしたという点で構成説に分類されることが多いですが、言語的に分析するところに特徴があります。

Wittgensteinの立場から言えば、「実在は我々と独立に存在する」、「実在は構成されたものだ」、「実在はこれこれのドメインで我々から独立している」、これらは言い方を変えただけで実在について何も主張もしていません。「実在」という言葉の使い方あ違うだけで事態を何もかえていません。

実在論者は、「ここに木が我々から独立に実在している」と言い、構成説では、「われわれの文化では、ここに木がある」と言い、新しい実在論者は、「ニュートン力学の法則の支配するドメインでは、ここに構成されたものでない木がある」と主張します。

「『ここに木がある』って言うところを、いろいろ別の言い方を提案してくれれてありがとう。でも、私は、「ここに木がある」のままににしておきます。そのほうが面倒がないし。哲学の病に苦しむこともないしね。」というのがWittgensteinの立場です。

ということで、インタビューを読む限りではGabriel氏の主張の新しさがわかりません。著作を読めばどこが新しいかわかるのだと思います。著作を読んだら、このブログにコメントしたいと思います。

About shibatau

I was born and grown up in Kyoto. I studied western philosophy at the University and specialized in analytic philosophy, especially Ludwig Wittgenstein at the postgraduate school. I'm interested in new technology, especially machine learning and have been learning R language for two years and began to learn Python last summer. Listening toParamore, Sia, Amazarashi and MIyuki Nakajima. Favorite movies I've recently seen: "FREEHELD". Favorite actors and actresses: Anthony Hopkins, Denzel Washington, Ellen Page, Meryl Streep, Mia Wasikowska and Robert DeNiro. Favorite books: Fyodor Mikhailovich Dostoyevsky, "The Karamazov Brothers", Shinran, "Lamentations of Divergences". Favorite phrase: Salvation by Faith. Twitter: @shibatau

2 Comments

  1. However, reading Badiou (but also Bertrand Russell, Georg Cantor, Wittgenstein, Heidegger, Carnap, and Putnam!) has influenced me. Badiou is a crucial figure in contemporary philosophy, and I think that reading has indeed had a much deeper impact on my thinking than Meillassouxs work. Meillassoux relies on an uncritical assumption of totality, which Badiou has successfully questioned. Having said that, one of the many differences between Badiou and me is that there is no room for the notion of a sense in Badiou (he thinks sense is a religious category, which hangs together with his critique of Gilles Deleuzes

  2. Thank you for your comment. Actually I don’t know much about Marukus Gabriel. This is the first time I have written about him. I’m interested in similarity and dissimilarity between him and Ludwig Wittgenstein. Because I’m very much inspired by Wittgenstein.

    Also thank you for information on Badiou. I have never read him yet but now I’ve got some information of him on Wikipedia. You wrote he thinks sense is a religious category. I’m not sure what it means, but I’m very much interested it.

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