Last Updated on September 27, 2020 by shibatau
I.何が問題
たまたま、吉本隆明「永遠と現在−親鸞の語録から」(『最後の親鸞』所収)を読んでいて、引用されている『歎異抄』5章の解釈が分からなかったので考えました。
ちなみに、仕事をやめたときほとんどの本を捨てたのですが、偶然残っている本をなにとはなしに手にとりました。
インターネットで少し調べただけですが、この箇所はわかりにくい?ので、いろいろに解釈されています。
『歎異抄』の原文は次です。
親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず。
そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり。
いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。
わが力にて励む善にても候わばこそ、念仏を廻向して父母をも助け候わめ、ただ自力をすてて急ぎ浄土のさとりを開きなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦に沈めりとも、神通方便をもってまず有縁を度すべきなり、と云々。
親鸞は亡くなった親が成仏するように念仏を唱えたことは一度もない。なぜなら、念仏は他力の修行なので、自分の意志でだれかを回向することはできないという趣旨ですが、それなら、「そのゆえは」から「この順次生に仏に成りて助け候うべきなり」は余計でしょう。
実際そのように解釈されている場合もあります。
また、最後の「有縁」を身近な人、あるいは、両親という解釈もありました。しかし、全体の趣旨からすると違和感が残ります。
II.唯円礼讃(ゆいえんらいさん)
『歎異抄』(唯円が書いたことにしておきます)の筆者は散文の達人です。達人はことばをおろそかにしないものです。
この章全体をひとまとまりの主張として解釈するなら、「そのゆえは」から、「神通方便をもってまず有縁を度すべきなり、と云々」の全体を、「親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず」の理由と理解すべきです。
III.自然法爾(じねんほうに)
「自然法爾(じねんほうに)」の深い意味は知りませんが、父母の教養のために念仏することは、自然の流れに逆らうことだというのがこの章の趣旨だと思います。
私は父母であろうとだれかのために念仏したことは一度もない。
なぜなら、生命は親から子、兄から弟へと続いていて、この順序に仏になって助けるけるのが自然の順序である。子から親は順序が逆ではないか。
そもそも、自力で念仏するのであれば、父母を回向(えこう)することもできるが、自力を捨てて他力の道(念仏を唱えるだけの簡単な道)を選び悟ることができるとすれば、どのような状況にあろうと人を選ばす仏縁のあるひとを救うのが自然の道理というものである。