Philosophy&Thoughts: 『論理哲学論考』の6.4以降を読んだメモ

何十年ぶりかにWittgensteinの『論理哲学論考』の6、7を読み直しました。『論理学哲学論考』は大変短いものですが、1、1.1、1.11、、、などと細かく番号がつけられており、7まであります。ちなみに、7は、ヴィトゲンシュタインに関心のある人にはよく知られている「人は語り得ないものについては沈黙せねばならない」の1文だけです。

『論理哲学論考』は第一次世界大戦中に執筆され1921年に出版されました。Wittgensteinが生前に出版した唯一の哲学書です。哲学書でないものでは小学生向けの辞書があり、彼が生前に出版したのはこの2冊だけです。

テキストは次にあります。ドイツ語、英語訳が併記されていて便利です。

 

Tractatus Logico-Philosophicus

 

学生時代になんども読みましたが、わからないところが残りました。今はその時より哲学的レベルは落ちているので、わからないところ、忘れていることがたくさんあります。

それでも、改めて読むと、やはり、Wittgensteinの文章は大変魅力的です。哲学や思想において魅力的な文章というのは、私の考えでは、ある種の文学的表現によって、高度に抽象的で難解な内容を直感的に把握できるようにするものです。しかも、わざとらしさがない形でなければなりません。

哲学者で文章がうまいといえば、『ツァラトゥストラ』のニーチェでしょう。日本では西田幾多郎もそういえるでしょうか。西田の文章は悪文の見本のように言われますが、、、まあこれは西田崇拝者にたいする反発もあるでしょうが、、、「物を知るにはこれを愛せねばならず、物を愛するのはこれを知らねばならぬ。」(『善の研究』)を読むと、そうか、愛と知は別物じゃないんだって納得してしまいます。

宗教書ですが、『歎異抄』の著者の唯円も天才的な表現者です。『歎異抄』が単に親鸞の思想をまとめたのだとしても、唯円の表現力なしには、『歎異抄』がこのように広く受け入れられることはなかったでしょう。

これらの書に勝るとも劣らない魅力を持つ『論理哲学論考』ですが、確かに相当難解な書物で、前半はドイツの論理学者フレーゲについての知識なしには理解するのが難しいです。

それでも、6.4以降の倫理について論じている箇所は、彼の論理学や存在論がわからなくてもなんとか理解できると思います。

ご参考までに、『論理哲学論考』でどのうような倫理観が唱えられているのか簡単にご紹介します。

 

I.幸せな人と不幸なひとについて

 

https://people.umass.edu/klement/tlp/tlp.pdf

 

上の画像の左列がドイツ語原文です。まん中が、Ogdenの英訳です、右がPearsとMcGuinnessの英訳です。

「幸福な人の世界は不幸な人の世界とは別物だ」とあります。これは、逆にいうと、幸せな人と不幸な人との違いは世界への態度の違いであって、物理的に同じ環境であっても、幸せと不幸に別れということを意味しています。

 

with Krita

 

一般に、同じ環境でも幸福と感じる人もいれば、不幸であるといつも不満をもらしているひとがいる、という身近な経験から、なるほどと思えるところがあります。

これ考え自体は、Wiggensteinの特有のものというわけではありません。例えば、ギリシャのストア派の哲学者エピクテトスも、現実を変えるよりも、心の持ち方を変えることで、こころの平静を保つことが肝要であると説きました。

仏教において、煩悩を断ち切って悟るというのも、物理的な世界をかえるのではなく、自己の心のあり方を変化させるべきであることを言っているのでしょう。極端な言い方をすれば、心の持ち方でなんとでもなる、金持ちでも貧乏人も、そのままでみんな平等だというのが仏教だという感じです。たぶん、清沢満之の言葉じゃなかったかな?まちがっていたら修正します。ともかく、そこまでいうと、私はちょっと納得し難いですが、心の持ち方幸か不幸かを分かつというのは、私にも理解できます。

このような考えは、西洋でも東洋でも主張されてきたことです。Wittgensteinに新しさがあるとすれば、これを彼の論理学や言語論、存在論に基礎をおいて主張したところでしょう。そう考えると、やはり、1から読まないと、ほんとうのところはわからないということになるかもしれません、、、。

 

II.罰は罪の行為に含まれる

 

https://people.umass.edu/klement/tlp/tlp.pdf

 

「確かに、ある種の倫理的褒賞(しょうしょう)と罰がなければならない。しかし、それらは、その行為そのものの中にあらねばならない」とあります。

身近な事柄に引き付ければ、見つかると罰があるから万引きしないのは、どこかあやしいところが感じられるし、隠れて何か悪いことをしそうな気がします。見つかる見つからない、罰せられる罰せられない、にかかわらず、正しいことをすべきじゃないか?

もし、それでも正しい行為は報われ、不正は罰せられるとすれば、行為そのものに賞罰がなければならないことになります。それは、正義をなした満足?不正をなした両親の呵責(かしゃく)でしょうか?

 

with Krita

 

『論理哲学論考』の面白い、あるいは、不思議なところは、このような倫理的なことについて語ることはできない、我々はこれを語る言葉をもたないとしたところです。

じゃあ、今まで論じてきたことはなんだったんだ?ということになりますが、これも、日常生活に引き付ければ、法律の量刑について議論はできますが、善や悪、もっといえば、人生の価値や宗教について議論しても結論はでないのが普通です。

結局、だまって自ら信じるところを選んで生きる他はない、というのが日常です。そこからして、「語り得ないことには沈黙すべし」ということに、完全には納得できなくても、なるほどということころがあるのではないでしょうか。

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About shibatau

I was born and grown up in Kyoto. I studied western philosophy at the University and specialized in analytic philosophy, especially Ludwig Wittgenstein at the postgraduate school. I'm interested in new technology, especially machine learning and have been learning R language for two years and began to learn Python last summer. Listening toParamore, Sia, Amazarashi and MIyuki Nakajima. Favorite movies I've recently seen: "FREEHELD". Favorite actors and actresses: Anthony Hopkins, Denzel Washington, Ellen Page, Meryl Streep, Mia Wasikowska and Robert DeNiro. Favorite books: Fyodor Mikhailovich Dostoyevsky, "The Karamazov Brothers", Shinran, "Lamentations of Divergences". Favorite phrase: Salvation by Faith. Twitter: @shibatau

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