Philosophy&Thoughts: 『歎異抄』を素直に読む ver. 2

歎異抄』について素人が考えたメモです。

 

Wikipediaによれば:

『歎異抄』(たんにしょう)は、鎌倉時代後期に書かれた日本の仏教書である。作者は、親鸞に師事した河和田の唯円(ゆいえん)とされる。、、、親鸞滅後に浄土真宗の教団内に湧き上がった異義・異端を嘆いたものである。

 

ちなみに、現存している最古のものは室町時代に蓮如(浄土真宗本願寺派第8世宗主、真宗大谷派第8代門首)が書写したものです。現在に続く巨大教団を気づいた蓮如上人も大変尊重したことがわかりますが、このことが『歎異抄』を教団ときりはなして読むことを難しくしています。

 

I.『歎異抄』の脈絡

 

対立する立場の人々が『歎異抄』を高く評価しながら、全く異なった解釈をしていることが、『歎異抄』の理解を妨げています。

『歎異抄』そのものは今読んでも非常にわかりやすく書かれています。ですから、『歎異抄』を素直に読めばよいのですが、先入観を抱いているとすれば、それを保留して読む必要があります。

まず、『歎異抄』=親鸞、という考えを捨てて、親鸞の死後に相対立した親鸞解釈の一つだとします。実際、『歎異抄』の内容から親鸞の著作『顕浄土真実教行証文類』をみるとかなり違和感があります。『顕浄土真実教行証文類』は仏典による自説の正当化ですが、『歎異抄』には文献考証を軽んじる主張があります。いやそもそも学問、知識一般を否定しています。

次に、『歎異抄』=浄土真宗、という考えも保留します。『歎異抄』執筆当時は、親鸞の曾孫の覚如が「浄土真宗」の統合を目指していましたが、まだ実権はなく、親鸞の「弟子」たちが群雄割拠していたようです。実際、『歎異抄』の中の親鸞は法然の忠実な信奉者であり、新たな宗派を立てる考えはありません。実際、歴史上の親鸞も独自な教義を加えたとは全く思っていなかったようです。さらに、『歎異抄』にははっきりと宗教的師弟関係を否定しており、反教団的傾向を読み取ることができます。

『歎異抄』=唯円or如信or覚如、も一旦保留しましょう。著者は唯円であるというのが現代の定説ですが、恣意的に名を記さなかったのだ?とすると、文中に唯円が一人称で登場するということを根拠にするのは、少し無理があるように感じます。

上のどれかを積極的に否定しようと意図はありませんが、これらを保留すれば、『歎異抄』は格段に理解しやすくなると思います。

 

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II.悪人救済の構造

 

単に私の関心からですが、法然と親鸞と『歎異抄』とプロテスタンティスムとドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の大審問官の章の主張を比べてみます。

比較項目は、救われているのは誰か、人は善か悪か、自由意志はあるか、救済の自覚はあるかの4項目です。

確かに、「救い」、「善悪」、「自由」、「自覚」という言葉の使い方はそれぞれの立場で異なるので、このように一覧にするのは意味がないと言われれば全くそのとおりなのですが、私にとって意味をなす程度には関連しているように私には思えます。『歎異抄』がわかりやすく読むための便方です。

 

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仏の本願、他力、悪人正機、称名念仏は、法然のアイデアです。論理的に考えれば、すべての人はすでに救われていて、「悪」も「善」すべては仏の意志あるいは因縁であるという主張です。救われていること自覚できるかどうかは、自覚して念仏するかどうかに表れるというのは、法然、親鸞、『歎異抄』に共通しているようにおもいます。

実際、親鸞は法然の思想に何も加えていないと生涯考えていましたし、『歎異抄』もそう趣旨のことが書かれていますので、素直にそう理解します。

このような信仰のもとにどのような行動が促されるかについて考えます。

みんな救われているのだから適当に行動するかというと、普通はそうはなりません。悪人であるわたしが仏によって救われたということを信じ、感謝して「南無阿弥陀仏」をとなえることになるでしょう。悪をなしてしまうこともあるでしょうが、それは因縁によるものであり、私の意志によるのではないので、いよいよ仏にすがるべきだということになります。信者に求められるのは、救いに対する感謝です。すなわち称名です。

 

プロテスタンティスム

 

救われている人と救われていない人は決まっています。自由意志を否定するので、努力で変更することはできません。そうすると、あきらめてむちゃくちゃな生き方になるように思いますが、そうはなりません。どうしてかというと、ひとりひとりは自分が救われているかいないかを知り得ないとされるので、自分は救われる側にいるとすれば神に対して悪を働くことはありえないので、救われた側であることを示す生き方をするインセンティブが働くからです。

 

「大審問官」

 

「大審問官」は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中で、無神論者イヴァンが弟のアレクセイに語った架空の物語を述べた章ですが、信仰には自由が欠かせないという立場をとっています。この考えはロシア正教に近いようです?

イヴァンは信仰は自由に選びとるものでなければならない。他から強制されたり、惰性によるものは信仰ではないと考えます。非常に強い完全に自由な自己があり、常に信を選ぶという実存主義に近い信仰観です。このような立場は、常に自らの悪を反省して、信を選び取ることを求めます。これは、かっこいいですが、大変苦しい道で、『歎異抄』からすると自力門で凡夫の及ぶところではないとされそうです。

 

to be continued

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About shibatau

I was born and grown up in Kyoto. I studied western philosophy at the University and specialized in analytic philosophy, especially Ludwig Wittgenstein at the postgraduate school. I'm interested in new technology, especially machine learning and have been learning R language for two years and began to learn Python last summer. Listening toParamore, Sia, Amazarashi and MIyuki Nakajima. Favorite movies I've recently seen: "FREEHELD". Favorite actors and actresses: Anthony Hopkins, Denzel Washington, Ellen Page, Meryl Streep, Mia Wasikowska and Robert DeNiro. Favorite books: Fyodor Mikhailovich Dostoyevsky, "The Karamazov Brothers", Shinran, "Lamentations of Divergences". Favorite phrase: Salvation by Faith. Twitter: @shibatau

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